静かに、落ちている。
 日の沈んだ空が水彩の青・・
 少しだけ赤を含んだ透き通る薄い空だ。
 高い高い空から・・・・ずっと落ちている。
 落ちながら、どうしようもない喪失感の中で、俺はいつも考える。
 たくさんのことを思う・・ひとつひとつ・・触れていく。
 空の美しいスクリーン、どこまでも透き通る世界に落ちながら・・
 深緑の木々のことを思う。
 きらめく川面を思う。
 赤く染まる雲を思う。
 そして空を見ながら、落ちる先を思う・・・・


 こんなにも静かな世界に、俺は落ちていく。
 こんなにも皆穏やかに、あるべき暮らしを続ける命の世界に。
 正しく組まれた円の法則が支配する美しい世界に。
 この続いていく世界の中に、俺は落ちていく・・・・・


 遠い山に澄んだ太陽の光、そのまっすぐな帯が、空に伸びている・・・高い空を輝かせている。
 俺はあそこから落ちてきた。
 雲の上には、白い石でできた美しい城があったように思う。
 この時間には、太陽の薔薇のような光に照らされ、たくさんの柱がまっすぐな影を落とした。
 広場の噴水が甘い香りをさせる軽やかな水音を奏で、浮かんだ花びらを踊らせていた。
 ああ、あの庭を覚えている。
 黄色や赤の薔薇が咲く、石畳の庭。
 紅と金の鳥が、夕暮れの歌を歌う、静かな庭・・・・・
 高いあの雲の上に、そんな場所があった。
 あの静かで穏やかな、誰もいない楽園で暮らしていた・・・


 それを思いながら、俺は落ちていく。
 深い、深い、静寂のような喪失感に包まれて。
 次々と美しいものに思いを馳せ、それがもう永遠に失われるのだということを思いながら。
 世界はもう二度と、俺を必要としない。
 この、静かな輝きの行き交う、何億年と続いてきた反射の世界は・・・・もう二度と。
 涙も出ない。本当なら悲しくて悲しくて、堪えられないことなのに。
 風の音が耳で暴れることもない。
 寂しい音が心の中で綺麗に響くばかり。
 静かに落ちていく・・・花のような輝きと香りに満ちた世界へ。
 落ちたときがお別れだ・・・・




 高い高い場所から落ちてきたんだ。
 廻り続ける力が永く平和を歌い続けるこの星の重力に引かれて、ずっと落ちていく。
 一秒ごとに速さを増しながら、天から地へと落ちていく・・・。
 どうして落ちているのかを、大地におちる前の短い一瞬、目を閉じて思った。
 高い空から・・翼を失って落ちている。決まっている。
 最初から、わかっていた。
 俺は失くした。
 高い空の楽園に舞う翼を。
 だから落ちている。
 翼を失った俺は、この世界からは失われるさだめ。
 翼のない鳥は生きていけないんだ。翼のない天使は天に在ることはできない。
 翼は決して、ただの飛ぶための道具なんかじゃないと、いまさら分かった。
 翼は、あの空に住むための証で、命、魂、在るということの・・形になったものだ。
 もう二度と楽園には戻れないんだ。
 いいや、それだけじゃない・・・楽園も空も、この次の瞬間に全て失われるんだ。
 俺の中から、俺の意識の中から、俺の世界の中から、無に変わる。
 重い罰を、自分の体に、細胞全てに、受けるために・・大地へと、叩きつけられるんだ。
 その痛みなんて思わなかった。
 だって・・・もう痛みなんか、分かる間もなく俺は消えてしまうんだから。
 一番痛いのは・・・・・・・今、この一瞬。
 全ての美しいものたちに・・・、俺を愛してくれた全てに、
 さよならを言わなければならない一瞬。





 翼よ、お前は今も、空を飛んでいるのか?
 俺がいなくなったから、体も軽く、金剛石の楽園へと旅立ったのか。
 それとも・・・・・・俺と同じようにこの空を落ちて、その身にこの悲しい罰を受けるのか。
 ああ・・・・・・それだけは、それだけは・・・。
 空よ、太陽よ、星よ・・・・・・それだけは。
 あの哀れで弱い、優しい翼から、この世界を取り上げないでください。
 愛されなくてはいけないのは、裏切られたものたちなんだ。
 愛されなくてはいけないのは、捨てられた全てのものだ。
 輝く風と水の環の中へ、どうか招き入れ、包み、その一部としてください。
 そうだ・・それさえ叶うんなら、俺は、無なんか怖くはない・・
 これから何兆年、俺のいない世界が、歌いながら踊り続けていくとしても・・・
 愛されるべきものが心安らかに、ここに生き続けるなら・・・




 そう願ったときに心に光が点ったように思うんだ。
 いつも・・・。
 ほんの一瞬だけれど、自分の中に、見たこともない綺麗な光を見るんだ。
 一秒にも、その一万分の一にも満たない一瞬間、俺はその光に見とれて、
 そして、全ての思考と認識が、消える。







 どんな薬を飲んでも、どんなに大変な仕事をしても、
 このイメージは、俺から失われることはなかった。
 でも、ずっと思ってた。
 あの落下の中で見つけた願いを、失いたくないんだ。
 だから・・・・だからきっと、俺はこの夢を見ることをやめない。
 やめられないのではなくて、やめないんだ。
 とても、大切な願いなんだ。
 この夢を悪夢とは呼ばない。
 いや、これは夢というものですらない。
 これはたぶん、思考の記憶だ。
 一番大事な答えの、開き解かれた長い式。
 俺の手の中の・・・小さなコンパス。